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萩観光と山口線SL

 

久しく、萩にも来ていなかったので、岩国についで、訪れたかった所です。

堀邸に続き、松陰神社内に残されてある松下村塾を荒木先生と一緒に見学しました。

季節もよく、お天気にも恵まれ、中国山脈を横断し、山の中のドライブも楽しみながら、やって来ました。

幕末の頃、若者たちは、ここで学んだのだと、そのまま残されている建物を見て古に思いを巡らせてきました。

 

嘉永6年(1853)6月3日、浦賀に来航したペリーの艦隊を目の当たりにした松陰先生は大きな衝撃を受けました。そして外国への密航を図るに至ります。翌年3月27日夜、伊豆下田沖に停泊していたペリーの艦隊に乗船した松陰先生と弟子の金子重輔は、アメリカ渡航を求めるものの、拒否され追い返されてしまいます。二人は江戸に連行され、国許幽閉が申し渡されました。 萩に帰った松陰先生は、野山獄に繋がれました。金子重輔はまもなく病死、先生はこれを深く哀しみました。先生は『孟子』の講義をするなど、乱れていた野山獄の風紀改善に取り組み、獄内の空気は一変しました。囚人達は互いに教え、学び合い、まさに獄は福堂となったのです。

松下村塾で志士を育てる

安政2年(1855)12月、獄を出て杉家宅で幽閉された先生は、家族などを相手に、獄内に引き続いて『孟子』の講義をはじめます。これに近隣の子弟が大勢参加するようになると、杉家の庭先の小屋を改装し、塾舎としました。これが現在も松陰神社境内に保存される松下村塾です。塾を主宰した松陰先生は数多くの人材を育て、その塾生達は明治維新を成し遂げる原動力となりました。

東送、不朽の留魂

安政5年(1858)、時の大老井伊直弼は幕府に反対する者達を大弾圧する暴挙に出ました。いわゆる安政の大獄です。松陰先生も安政6年(1859)5月25日、再びつながれていた野山獄から江戸に護送され、死罪を言い渡されます。同年10月27日、江戸伝馬町の獄内で殉節されました。数え年で30歳でありました。

松陰神社HPより

 

津和野に戻ると、土日は山口➡津和野間をSLが走る事になっていて、汽笛が聞こえて来ました。

撮り鉄の人達が集まって来ていて、私も車を置いて、津和野の真ん中にある大橋の上で、待ち構えました。

父は生前国鉄(現JR)職員で運転手をしていたので、しかも退職間際には、観光の為に再興されたこのSLを運転していたので、父に思いを馳せながら、力強い物体を見送りました。

今回の帰省は、父の五年祭にかこつけて、私の観光旅行にもなったようで、幼友達にも会ったり、一緒に中学の恩師宅を訪ねて、絵を描く事が趣味の先生から故郷を描いた絵を頂いてきたりして、今まで出来なかった事を詰め込んだ4日間になりました。

翌日(最終日)は、一番の目的であった父の五年祭終了後、墓参りをして、妹家族と一緒に【福ずし】さんで食事を済ませて直ぐに、慣れた道から中国道に入り、夫と愛猫の待つ我が家に帰阪して来ました。
今までの葬儀・法要での帰省では、悪天候の日が多かったのですが、今回はお天気に恵まれた墓参りが出来ました。

帰省前の準備から、帰省中まで、少しハードだったので、疲れは感じましたが、内容の濃い帰省になり、思い出となりました。